【京都】清水寺
6年振り2度目の参拝です!
平安京遷都以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院の1つ。
境内は標高242mの山の中腹に整地されています。
何度も災害に遭い、その都度再建。
現在の伽藍は、徳川家光によるものです。
法相宗→(平安中期)真言宗を兼宗→(明治初期)真言宗醍醐派→(明治)法相宗…となり
お寺だけれど、狛犬が居ます。
阿吽ではなく、どちらもあんぐり口を開けています。
釈迦が説法する姿は、獅子が吠える様だったと表現された事からくるそうです。
仁王門向かって左には馬駐という参拝者が馬を繋いだ建物があり、
どんなに偉い人でもここで馬を降り、広い境内を皆徒歩で参拝したそうです。
門をくぐると手前にあるのが西門。
その後ろに大日如来を祀る高さ約31mの三重の塔が見えます。
真っ直ぐ進むと随求堂というお堂がありますが、
そこで堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われています。
本尊の大随求菩薩はどんな願いも叶える様働いて下さるそうです。
数珠を伝い、大悲母のお腹の中へ入ったつもりで暗闇を進み、
石に触れてお願いをして戻りますが、
想像以上の暗闇で出てくるとホッとします。
幾つかのお堂を過ぎると本堂。
入口には明治中期に修験者から奉納された「弁慶の錫杖と高下駄」があります。
小錫杖、高下駄は持ち上がりますが、重さ90㎏以上の大錫杖はびくともしません。
本堂は外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分かれています。
外陣とさらに外側にめぐらされた廊下を進んで拝観します。
寄棟造り、檜皮葺の屋根が平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影を今に伝えます。
内々陣には、御本尊の十一面千手観音と、脇侍の地蔵菩薩、毘沙門天。
三尊像は33年に1度開扉の秘仏で、2000年に開帳されたそうです。
写真も公表されていませんが、模して造られた「お前立ち像」は公表されています。
42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、
化仏を捧げ持つ「清水寺形千手観音」という特殊な形式の像です。
本堂正面左右に入母屋造の翼廊が突き出し、間に舞台があります。
観音様に芸能を奉納する場所で、現在でも重要な法会には舞台奉納が行われます。
張り出した舞台は4階建てのビルの高さで、下から見たらこんな感じ。
急な崖に最長約12mの巨大な欅の柱を並べ、
「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築。圧巻です。
実際に飛び降りた人は記録にあるだけで234件に上り、生存率は85.4%。
明治に政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったそうです。
「今年の漢字」もここで発表されるので、その公募もしていました。
見下ろすと音羽の滝が見えます。
本堂の先には釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建ちますが、この辺は工事中。
ここで本堂の御朱印を頂きました。
西国33所観音霊場第16番札所、洛陽33所観音霊場第12番札所でもあります。
よく大悲殿と書いてありますが、今回は大悲閣。
大悲殿も大悲閣も観音様のいらっしゃる建物の事で同じですが、
2階建ての建物の場合は閣になる、という様な事を聞きました。
本堂の隣には縁結びの地主神社。
明治以降は神仏分離により独立しましたが、元々は鎮守社として清水寺の一部でした。
地主神社についてはまた別で書きます。
工事中の阿弥陀堂側には仮の通路が作られており、横から舞台を見る事が出来ます。
ほんのりだけれど紅葉が。
下に降りると音羽の滝。
3筋に分かれて清水が流れ、学問、健康、縁結びの御利益があります。
長い列で一苦労でした。
ここが清水寺の始まりであり、名前の由来にもなっています。
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奈良時代末、奈良子島寺の賢心(後の延鎮上人)が夢のお告げでこの滝に辿り着き、
修行する行叡と出会いました。
後を頼むと言い残して去った行叡に代わり、賢心が霊木に千手観音像を刻み、
行叡の旧庵に安置した事が、清水寺の始まり。
田村麻呂が妻の病気平癒の為に薬になる鹿の血を求めて音羽山に入り、
賢心に出会うと殺生の罪を説かれ、感銘を受けて自邸を本堂として寄進。
征夷大将軍となり蝦夷を平定した後は、延鎮と協力して本堂を大規模改築。
よって清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置付けています。
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ここでは不動明王の御朱印を頂きました。
力強い字なのに不が平仮名なのが可愛らしいです。
泰産寺の三重塔、子安塔が見えます。
高さ15mで、仁王門傍の三重塔の約半分の大きさです。
善光寺堂。
ここには首振り地蔵が居ます。
自分の願い事の方向に向けてにお地蔵さんの首を回します。
参道約1.2㎞の坂道は清水道と呼ばれ、土産物店が並びます。
何だか微妙な写真が多いですが、
観光客が多過ぎてなかなか思う様な写真が撮れませんでした(^_^;)