【京都】錦天満宮
新京極商店街の中を歩いていていると見付けた、狭いながらも賑わっていた神社。
闇の中に爛々と輝く提灯が美しく、ついつい引き込まれてしまいました。
せっかく綺麗な写真をたくさん撮ったのに、
誓願寺に続き、写真が消えてありません(´△`;)
特に由緒の深い二十五社「菅公聖跡二十五拝」の第二とされるそうです。
平安前期、菅原道真公の生家「菅原院」に創建され、後に「歓喜寺」と寺名に改称。
300年後、善導寺に寄進されると同時に「天満宮」に改められ崇敬、奉祀されました。
豊臣秀吉の都市計画により「金蓮寺」の敷地に移転し、「錦天満宮」として鎮座。
残された神社は社地を縮小し、現在に至ります。
御朱印は書置きで頂きました。
記念スタンプも押せます。
授与品の中には、木でできた丸い「大願梅」があります。
願い事を記して封をし、境内の「大願梅の樹」に吊るします。
クリスマスツリーのオーナメントの様になっていました。
獅子がおみくじを運んでくれる「からくりおみくじ」や
道真公の生涯を説明する「紙芝居ロボット」もあり、参拝者を楽しませてくれます。
【京都】誓願寺
大きな商店街の中で一際目立ったお寺。
今回はスマホが壊れて写真が全部消えてしまいました(´_`;)
平安後期、法然上人が興福寺の僧より寺を譲られて以降、浄土宗になり、
聖地として受け継がれながら、現在は浄土宗西山深草派の総本山となっています。
奈良にあったのが、鎌倉初期に京都の一条小川に移転し、
その後、豊臣秀吉の寺町整備で現在地に移されました。
通りは洛中一賑わっていた場所でしたが、幕末の戦乱で焼け野原となり
ここと金蓮寺境内を没収し、新しい路を通して一大歓楽街を作り、
現在の新京極通りとなったそうです。
ご本尊は阿弥陀如来。
制作にあたっては不思議な伝説があります。
仏師として名を馳せていた父子に天智天皇が阿弥陀如来座像の造立を命じました。
2人は別々の部屋で仏の半身を彫りますが、合体すると寸分違わず合致したそうです。
父子がそれぞれ春日大明神の本地である地蔵菩薩、観音菩薩となり、
闇の中で光を放ちながら彫っていた事から、春日大明神が造られたと崇められました。
この時の像は度重なる火災で焼失し、
現在の像は神仏分離で石清水八幡宮に安置されていたものが移されたものです。
誓願寺では平安時代に、有名な2人の女性作家が極楽往生されています。
清少納言と和泉式部はここで尼となり、庵室を結んで往生を遂げたそうです。
御朱印にも和泉式部の印が押され、
秀吉公の側室であった松の丸殿は寺町整備の移転の際、堂塔の再興を助けました。
寺の近くの屋敷に住んでいた事から再興への思いを確立されたと言われ、
豊臣家の滅亡と共に秀頼の子・国松公が処刑されると亡骸を誓願寺に埋葬。
明治に豊国廟の境内に移されました。
誓願寺のパンフレットは今風でオシャレです。
イラストの阿弥陀如来が落語の奉納を見て、泣き笑いしています。
説教から発達した講談、落語、漫才等の芸人の成就を祈願する寺として知られ、
落語発祥の寺とも言われています。
山門の外には「迷子のみちしるべ」の石柱があります。
右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、
落し物、迷子等の時は紙に書いてこの石に張り出しました。
警察の無かった江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり
各地の社寺や盛り場に建てられたものだそうです。
【京都】晴明神社
額束には神紋の五芒星。
晴明公が始めた魔除けの印で、ここでは桔梗印と呼ばれています。
鎮座1000年を記念して、境内には桔梗が植えられています。
左右の柱には日と月のオブジェの付いた柱。
こちらが天体を観測している姿の安倍晴明。
天文陰陽博士として活躍し、移り行く星や雲の動きを観察。
宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、大きな信頼を得ました。
唐へ渡り、帰国後にこれを元に日本独特の陰陽道を確立。
今日の年中行事や暦術、占法の基になっています。
こちらでは晴明公に関わる逸話も紹介されています。
創建は見た目の印象より遥かに古く、1007年!
晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、御霊を鎮める為、
晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。
創建当時の神社は広大なものでしたが、
応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火により、その規模は縮少。
荒れたままの時代が続きましたが、その後、氏子が中心となって整備・改修。
境内地が拡張される等の復興が進められ、今の姿に。
桔梗印や大極図が境内のあちこちに見られ、それを探すのも面白いです。
こちらの柱には四獣が填め込まれています。
晴明公は家来として式神という鬼を使い、橋の下に封じ込めていたそうです。
巨大な狛犬も。
晴明公の念力で湧き出ている晴明井。
病気平癒の御利益があり、一応飲めるみたいです。
陰陽道で、桃は魔除け、厄除けの果実。
厄をこの桃に撫でつけて落とします。
樹齢300年の楠が御神木。
御朱印の「晴明社」の字は、晴明公から数えて34代目の子孫で
当時の陰陽頭の土御門晴雄卿の字を版に起こしたものだそうです。
【京都】東向観音寺
北野天満宮の前に鎮座するお寺。
真言宗泉涌寺派、準別格本山。洛陽三十三所観音巡礼の31番札所。
本堂が東を向く事から東向観音。
元は西向もあったそうですが、
火災等で焼失し、東向のみが再建されているそうです。
桓武天皇の命を受け、藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立。
当初は朝日寺と呼ばれていました。
朝日寺の僧・最鎮らが天満宮を建立した後、
筑紫の観世音寺より菅原道真公作の十一面観世音菩薩を持ってきて安置。
江戸時代に入ると一條家の祈願所となり、
ご結婚前にこちらで勉学に励まれたと言われています。
白衣観音堂というお堂には高王白衣観世音菩薩を安置。
子供を抱いている珍しい観音像は世継子授や安産の信仰を集めており、
堂内には御礼参りで納められた人形が多数祀られています。
【京都】今宮神社
別名「玉の輿神社」!
朱色の門が鮮やかで目を引きます。
平安遷都以前からこの地には疫神、素戔嗚を祀る社があったとされます。
しばしば疫病や災厄が起こり、各地で御霊会が営まれていました。
994年、都で大規模な疫病が蔓延った為、
神輿を造って船岡山に安置し、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流しました。
その後も疫病が流行。
疫神を船岡山から再びここに移し、神殿を造らせて今宮社と名付け、
疫病が流行る度に御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着しました。
こちらが桂昌院。
八百屋に生まれた「お玉」が3代将軍家光の側室となり、
5代将軍綱吉の生母・桂昌院となりました。
この事が「玉の輿」という言葉の由来でもあります!
愛郷の念が強く、戦国の兵乱で荒廃していた社殿の造営に務めました。
御朱印は見開きで頂けます!
今宮祭で使われる傘が描かれています。
花の精に煽られて飛散する悪疫 を、囃子や歌舞によって追い立て、
花を欺く風流傘に宿らせ、紫野疫社に送り込み、鎮める…というのがこの祭。
この中に入るとその年の厄を除かれるそうです。
特大記念スタンプが置かれています。
B5用紙に押してこれ。こんなの見た事無い!
まつぼっくりの置物が可愛いです。
阿呆賢さん。
掌で撫でて石を持ち上げ、軽く感じられれば、願いが叶います。
織姫社。
御祭神は栲幡千千姫命(高皇産霊尊の御子で天忍穂耳尊の妃。天火明命々杵尊の母)。
織物の巧みさ美しさを賞でられる神として技芸上達を願う人々の崇敬が篤く、
七夕伝説の織女に機織をお教えになられたとも言われ、織物の祖神とされています。
若宮社。
伊勢神宮にも若宮社があり、霊が祟りを成す時、
その祟りを弱める為により強い神格の下に祀ったそうです。
更に奥に進むと高台の上に月読社があります。
伊勢神宮の別宮月読宮の御祭神、月読尊を祀ります。
境内にはムクロジという木が植えられていますが、
この実が乾燥すると中から黒い種が出てきます。
これが羽根つきの羽根に使われるのだと掃除のおじさんが教えてくれました。
確かに硬くてそれっぽい音がします。
神社を出ると、参道を挟んで右に「一文字屋和輔」、左に「かざりや」、
という2軒のあぶり餅のお店があります。
祭事で用いられた竹や供え餅を、参拝する人々に厄除けとして提供したのが始まり。
きな粉を塗した餅を炙って、白味噌のたれをかけています。
1000年以上の歴史を持つ「一文字和輔」は甘い子供向けの味、
江戸時代初期の創業の「かざりや」はあっさり大人味。
2軒で異なる白味噌を使っていて喧嘩していると言われていますが、
それが話題となって店を盛り上げている様です。
【京都】北野天満宮
「北野の天神さん」「北野さん」と呼ばれています。
ここが「天神信仰」発祥の地。
この地は都の守護を司る場所とされ、天神地祇をお祀りした地主社が建てられました。
この神社に向けて帝が大極殿から祈りを捧げる時、
北野の上空には北極星が輝き、日・月・星の運行が
天皇・国家・国民の平和と安寧に関わるとする「三辰信仰」と結び付き、
天のエネルギーが満ちる聖地となったそうです。
創建は、平安時代中頃。
京都に住んでいた多治比文子や近江国比良宮の神主、北野朝日寺の僧が神殿を建て、
道真公をお祀りしたのが始まり。
藤原氏により大規模な社殿の造営、一條天皇の勅使により国家の平安が祈念。
この時から「北野天満天神」の神号が認められました。
鳥居前の狛犬。迫力があります。
天神さんと言えば牛。なんと本物が居ました!
馬も居ました。蹄の音を響かせながら出て行きます。
「ずいき祭」というお祭が行われており、最終日だった様です。
流石学問の神様。修学旅行生が多いです。
江戸時代に寺子屋が普及し、教室に天神さまがお祀りされた事から
「学問の神」「芸能の神」として知られる様になったそうです。
楼門。中には貴族の格好をした像。
道真公かなとも思ったけれど、2人いらっしゃる…どなたでしょう?
今年の干支の猿の絵と、歌人の絵が並んでいます。
参道をぐるっと進むと三光門と呼ばれる中門。
三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻がある事が名前の由来。
色鮮やかな兎や鳥や虎の彫刻が隠れています。
こちらの狛犬は頭がペタッとしているのが特徴。
たてがみの緩やかなカールが可愛らしいです。
拝殿の前には道真公を慕って飛んだという梅の花。
水占みくじに挑戦。
水に浸すと文字が浮かんできます。微妙な結果に。
本殿、石の間、拝殿、楽の間が連結し、檜皮葺きの屋根が被せてある特徴的な作りは
権現造りというそうです。
釣灯籠も綺麗です。
御朱印は4通りあり、その内2つ頂きました。
左が通常タイプ。右は三光門のものです。
最後に北野天満宮の様々な牛の像をご覧下さい!
子どもが居たり色や柄が違ったり。頭と体のバランスも様々です。
【京都】岡崎神社
平安神宮近くに鎮座する岡崎神社。
平安京遷都に際し王城鎮護の為平安京の四方に建立された社の一つ。
陽のいずる都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称しました。
御祭神は素戔嗚尊、櫛稲田媛命とその御子・三女五男八柱御子神。
速素盞嗚尊は八俣大蛇から奇稲田姫命を救う為、
姫を小さな櫛にして御髪に刺し、見事に退治。
姫と結ばれた有名な故事により、縁結びの神とされています。
拝殿の前には狛兎。
右が雄、左が雌。頭をなでることで縁結び・夫婦和合の祈願となります。
こちらは招き兎。
向かって右が左手で招く縁結びの兎。向かって左が右手で招く金運の兎です。
ご祭神二柱は子宝に恵まれた霊験あらたかな子授け安産の神。
また、地域一帯が野兎の生息地で、多産な兎は古くから氏神様の神使い。
治承二年には中宮も御産の際に安産の祈願をされました。
手水舎には黒御影石で出来た子授け兎。
月を仰ぎ体に力を満たした兎。
水を掛けてお腹を擦り祈願すると、子宝に恵まれ安産になるそうです。
御朱印にも兎の印が!やったー!
兎みくじ。
つぶらな瞳でこちらを見ています。なんて可愛いのでしょう!
参拝者の兎みくじが並んでいます。
境内の兎を探すのも楽しいです。